スタジオジブリの「ゲド戦記」がテレビで放送されるたびに、話題に上るキャラクターがいます。
主人公アレンやテルーももちろん魅力的ですが、悪役のクモが放つ独特の存在感は、観る者の記憶に静かに刻まれます。
声を担当したのは、俳優の田中裕子さん。
彼女の演技が、クモというキャラクターに深い陰影を与えています。
クモという異色の存在
「ゲド戦記」の中で、クモは永遠の命を追い求める魔女として登場します。
宮崎吾朗監督のデビュー作であるこの作品は、ジブリらしいファンタジーの世界観を持ちつつも、どこか落ち着いたトーンが特徴となっています。
その中でクモは、アレンやテルーと対峙する存在として、物語に緊張感をもたらします。
彼女の住む城は薄暗く、蜘蛛の巣のような装飾が不気味さを漂わせますが、派手なアクションよりも静かな対話が印象に残ります。
クモの目的はシンプルです。
死を恐れ、永遠に生き続けること。
でも、その執着が彼女を孤独に追い込み、最後には自滅へと向かわせることになります。
この描き方は、ジブリ作品の中でも異色で、他の悪役――たとえば「もののけ姫」のエボシや「ハウルの動く城」のサリマン――とは一線を画しているように思われます。
クモの正体と原作での背景
映画ではクモの手下ウサギが「生死両界の王になられるお方だ!」と叫びますが、彼女の正体は原作でさらに詳しく描かれています。
原作「ゲド戦記」第3巻「さいはての島へ」によると、クモは「生」と「死」の間にある禁断の扉を開けた魔法使い。
自分の意志で生死を操り、不死を手に入れたことで「両界の王」を自称しますが、実はすでに死者であり、生を失った存在です。
映画ではまだその扉を開ける前段階のように描かれていますが、永遠の生への執着は共通しています。
また、原作のアースシーでは魔法使いは男性しかなれず、クモは男性として設定されています。
映画では中性的な雰囲気で描かれ、田中裕子さんの声がその曖昧さを強調していますが、原作に基づけば「彼」は明確な男性魔法使い。
この違いが、ジブリ版のクモに独特の魅力を与えているとも言えるでしょう。
ハイタカとの因縁と過去
クモの物語は、大賢人ハイタカとの深い因縁抜きには語れません。
原作では、クモはかつて大魔法使いとして財を成し、金さえ払えば死者を呼び戻す魔法を使っていました。
その軽率さに激怒した若き日のハイタカは、クモを黄泉の国へ強引に連れていきます。
死者を操っていたクモが実は自分の死を極端に恐れていたことがそこで露呈し、泣き叫ぶ姿を見たハイタカは後にこう振り返ります。
「わしは、その時、自分のしていることが間違っていると気づくべきだったんだ。だが、わしは、怒りと虚栄心のとりこになっていた。」 ル=グゥィン, ゲド戦記Ⅲ巻「さいはての島へ」, p138-139, 岩波書店
この事件でクモは表面上謝罪しますが、心の中ではハイタカへの憎しみを募らせます。
映画での「再会をよろこぼうぞ…ハイタカ…」という台詞は、この復讐心を静かに示しているのです。
田中裕子さんの冷たくも感情を秘めた声が、この因縁の重さを際立たせています。
田中裕子の声が与えた深み
クモを演じた田中裕子さんの声は、低く落ち着いていて、どこか冷たさを感じさせます。
それでいて、言葉の端々に微かな感情が滲んでいるのです。
田中裕子さんの演技は、クモの表面的な冷酷さと内面の脆さを同時に表現しているようでもあります。
たとえば、アレンに「生きるのが怖いのか」と問われたときの返答。
そこには威圧感よりも、どこか疲れたような響きがあって、クモの孤独が垣間見えるようです。
田中裕子さんは俳優として数多くの作品で実力を発揮してきましたが、アニメでの声優経験はそれほど多いわけではありません。
それでも、クモというキャラクターに命を吹き込む田中裕子さんの声は、まるでその役のためにあったかのように感じられます。
派手な叫びや大仰な表現ではなく、静かに語りかけるようなトーンが、クモの不気味さと悲しみを引き立てています。
特にハイタカとの再会シーンでは、静かな語り口が復讐心と虚無感を際立たせ、観る者の心に深く残ります。
クモが示すテーマと世界への影響
クモの行動は、単なる悪役の執着を超えて、アースシーの世界に大きな影響を及ぼします。
原作では、生と死のバランスは自然の理であり、それを崩すことは禁忌。
クモが扉を開けたことで、竜が共食いを始め、羊が子を産まなくなり、魔法の力が弱まるなど、世界は不安定に陥ります。
ハイタカが旅に出たのも、この均衡を修復するためでした。
彼はクモにこう告げます。
「そなたは死を失い、死を失うことで同時に生を手放した。それで、今、そなたはそのあとのがらんどうを埋めようと、世界を、自分のなくした光や命を、自分のところに引き寄せようとしているのだ。」
ル=グゥィン, ゲド戦記Ⅲ巻「さいはての島へ」, p324, 岩波書店
不死を求めたクモは結局「空っぽ」になり、映画の最後で目が穴のように空く描写はそれを象徴しています。
このテーマは、永遠の命が実は虚しいものだという深い問いを投げかけ、ジブリ版の静かなトーンに哲学的な重みを加えています。
さいごに
映画の終盤、クモは自らの魔法を失い、急速に老いて崩れ落ちます。
そのシーンは衝撃的ですが、どこか静かです。
田中裕子さんの声が最後に発した言葉は、観る者にクモの終わりを受け入れる時間を与えます。
彼女の存在は、永遠の命を求めることがどれほど空しいかを、言葉少なに伝えてきます。
「ゲド戦記」はジブリ作品の中でも賛否が分かれる映画ですね。
原作ファンからは改変への批判もあるし、物語のテンポに物足りなさを感じる人もいるかもしれない。
でも、クモというキャラクターと田中裕子の演技は、間違いなくこの作品のひとつの魅力に違いありません。
放送を見るたびに、彼女の声が耳に残り、クモの姿が頭に浮かびます。
次に「金曜ロードショー」で「ゲド戦記」が流れるとき、ぜひクモのシーンに注目してみてください。
田中裕子さんの静かな迫力が、映画の深いところに響いていることに気づくでしょう。