橋本愛が語る「男性恐怖症」とは
映画「早乙女カナコの場合は」で主演を務めた橋本愛さんは、役柄である早乙女カナコの核となる要素として「男性恐怖症」を挙げています。
このキーワードは、彼女がインタビューで繰り返し強調したポイントであり、カナコというキャラクターを理解する上で欠かせないものです。
では、橋本愛さんが感じた「男性恐怖症」とは具体的に何なのでしょうか。
インタビューの中で、橋本愛さんは次のように語っています。
演じる上で一番大事にしていたのは、セリフでも語られますけど“男性恐怖症”というところがカナコの核となる部分として存在しているということ。性的な目線で見られることへの忌避というのがあって、だからこそ自分を“男らしく”見せたり、そこまでじゃなくても、“女性らしい”とされるようなことを全て回避して、ある種、自分を何かにカテゴライズして、当てはめて生きることしかできない――そういう生きにくさを抱えているんですよね(映画.com)
この発言から、橋本愛さんが考える「男性恐怖症」とは、単なる男性への恐怖ではなく、性的な視線や社会的な期待に対する強い抵抗感と、それに伴う自己表現の葛藤を指していることが分かります。
カナコは、自分を「女性らしい」と定義されることから逃れようとし、その結果、自分を無理やりカテゴライズして生きざるを得ない状況に追い込まれているのです。
橋本愛さんは、この生きづらさに「自分にも身に覚えのある感覚だった」と述べており、個人的な共感を役に投影したことがうかがえます。
『早乙女カナコの場合は』での演技への反映
では、橋本愛さんはこの「男性恐怖症」をどのように映画の中で演じたのでしょうか。
インタビューでは、特に印象的なシーンとして、原作にはないダンスシーンが挙げられています。このシーンを通じて、彼女がカナコの内面をどう表現したのかが明らかになります。
橋本愛さんはダンスシーンについて次のように説明しています。
男性に対して、そんな思いを持っているカナコがなんで長津田に惹かれたのか? それは、言葉では説明されてはいませんが、原作にはないシーンとして、矢崎さんが書かれたのが、2人がダンスするシーンなんです。あのシーンは、映画的言語として詩的なものが立ち上がってくるところで、カナコの実感としては、ダンスをする時って手を取り合って体が触れ合うじゃないですか。そんな時に長津田だけは、自分に対してそういう(性的な)ニュアンスを一切感じさせることがなかったのかなと。そんなふうに感じたのは、たぶん人生で初めてで、後にも先にも長津田以外にはいなかった。そこが一番大きな存在だったんだなと思いました。(映画.com)
このダンスシーンは、カナコの「男性恐怖症」を象徴する重要な場面です。
橋本愛さんは、長津田との接触がカナコにとって特別だった理由を、性的なニュアンスのない純粋な触れ合いとして解釈し、それを演技に落とし込みました。
彼女は当初、このシーンの深い意味を意識せず「ちょっと困惑しながらも、なんか楽しいなっていうぐらいの感覚」で演じていたと明かしていますが、後から振り返って「自分の中に流れ込んでくるものがあった」と気づいたそうです。
この気づきが、彼女の演技に自然な感情の層を加えたと言えるでしょう。
さらに、橋本愛さんはカナコの複雑な感情を別のシーンでも表現しています。
例えば、社会人になったカナコと長津田が屋上で再会する場面では、言葉と感情の矛盾を演じる難しさを語っています。
一番難しかったのが「なーんも変わらないね」というセリフを「全てが変わっちゃったな…」という気持ちを込めて発しなくてはいけなくて。それをどこまで見せて、どこまでお客さんに伝えられるのか? ものすごく悩んだし、監督ともたくさん話し合って、いろいろ試しましたね。(映画.com)
このシーンでは、「男性恐怖症」を背景に持つカナコが、長津田への期待と失望が入り混じる心情を、橋本愛さんが繊細に演じています。
彼女の演技は、表面的なセリフとは裏腹な内面の葛藤を観客に伝えることを目指しており、それが「男性恐怖症」というテーマをより深く浮かび上がらせています。
橋本愛の共感と演技の深さ
橋本愛さんが「男性恐怖症」を演じる上で特に意識したのは、カナコの生きづらさに対する共感です。
彼女はインタビューで「その生き方に共感できるところがたくさんあって、自分にも身に覚えのある感覚だった」と述べています。
この個人的なつながりが、演技にリアリティと深みを与えたのは間違いありません。
また、矢崎仁司監督の演出も、橋本愛さんの演技を支える要素でした。
監督が終盤のシーンで「ここで初めてカナコは止まるんだよ」と伝えた言葉は、彼女にカナコの人生を肉体で表現するヒントを与えました。
このような演出を通じて、橋本愛さんは「男性恐怖症」を抱えながら走り続けたカナコが、初めて立ち止まる瞬間を体現したのです。
まとめ
橋本愛さんが感じた「男性恐怖症」とは、性的な視線への忌避と、それによる自己カテゴライズの強制という生きづらさでした。
彼女は『早乙女カナコの場合は』で、このテーマをダンスシーンや再会シーンなどの演技に反映し、カナコの内面を詩的かつリアルに描き出しています。
自身の経験と共感を基に役に挑んだ橋本愛さんのアプローチは、観客に深い印象を残すものとなりました。