平野レミの父・平野威馬雄とは?経歴とプロフィールから見る日米ハーフの壮絶な半生

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平野レミさんの父親として知られる平野威馬雄さんは、詩人でありフランス文学者として活躍した人物です。日米ハーフとして生まれた彼は、幼少期から差別に苦しみながらも、文学の世界で才能を発揮し、後年には自らの経験を活かして混血児の救済活動に尽力しました。波乱に満ちた人生は、多くの人々に影響を与え続けています。この記事では、そんな平野威馬雄さんのプロフィールと経歴を詳しくお伝えします。

この記事のまとめ

  • 平野威馬雄は1900年生まれの日米ハーフの詩人・フランス文学者で、平野レミの父です。
  • 幼少期から混血児としての差別を受け、学校で「ヒラノ・ド・ベルジュラック」とあだ名されるなど壮絶な体験をしました。
  • 上智大学卒業後、モーパッサンなどの翻訳や詩作で活躍し、同人誌「青宋」を主宰しました。
  • 戦後、自身の経験から「レミの会」を結成し、約2000人の混血児を支援する社会活動を行いました。
  • 自伝『レミは生きている』では、差別と再生の半生を告白的に描き、サンケイ児童出版文化賞を受賞しました。
  • 1986年に86歳で亡くなり、遺骨は横浜の外国人墓地にあり、現在も墓前祭「青宋忌」が行われています。

平野威馬雄の生い立ちと日米ハーフとしての苦難

平野威馬雄さんは、1900年(明治33年)5月5日に東京市赤坂区青山北町(現在の東京都港区北青山)の柳原愛子邸で生まれました。父はアメリカ人で、日本美術に造詣が深く、サンフランシスコ日米協会の初代会長を務めたヘンリイ・パイク・ブイです。母は日本人で琴の教授だった平野駒さんで、カトリックを信仰していました。

父は日米を行き来する生活を送っており、威馬雄さんが7歳のときに2年間日本で暮らした後、再びアメリカへ帰国しました。この間、弟の武雄さんが生まれています。威馬雄さんは幼い頃から混血児として近所から「ラシャメン」と蔑称され、差別にさらされました。横浜市西区老松町で育ち、横浜市立老松小学校に通っていましたが、ハーフであることを理由に肩身の狭い思いをしました。

学校生活では特に辛い体験が続きました。暁星中学校に進学したものの、権威主義的な校風に反発し、国語教師から文才を認められながらも、鼻が大きいことを理由に「ヒラノ・ド・ベルジュラック」とからかわれました。また、大隈重信の国粋主義的な演説をきっかけに「非国民」扱いされるなど、深刻な差別を受けています。これらの経験は、後の彼の人生観や活動に大きな影響を与えました。

18歳のとき、父が9年ぶりに来日し、一家は渋谷へ転居しました。父の友人ヨネ・ノグチの紹介で詩人・正富汪洋と出会い、詩誌『新進詩人』に参加します。この頃、逗子開成中学から名教中学校へ編入し、卒業しました。しかし、父は2年後に帰国し、ほどなく亡くなりました。威馬雄さんが父と会ったのはこれが最後で、父との時間は短かったのです。

文学者としての道のりと多彩な活動

上智大学文学部ドイツ哲学科を1928年に卒業した平野威馬雄さんは、フランス文学の翻訳や詩作に没頭しました。モーパッサンなどの作品を翻訳し、早熟の天才として金子光晴から評価されました。詩人としては同人誌「青宋」を主宰し、日本詩人クラブの創設会員にもなりました。

ペンネーム「松戸淳」を使い、好色文学の翻訳も手がけています。また、ジャン・アンリ・ファーブルの著作を翻訳するなど、自然科学関連の仕事も行いました。著書には詩集『青火事』や伝記『くまぐす外伝』『平賀源内の生涯』、研究書『フランス象徴詩の研究』などがあり、300冊を超える著作を残しています。

戦後、混血児としての自身の苦しみを活かし、1953年に「レミの会」を結成しました。これは、占領下で生まれた混血児の救済を目的とした団体で、私費を投じて約2000人を支援したといわれています。差別や貧困に苦しむ子どもたちを自宅に迎え入れ、保護する活動は、彼の人生の大きな部分を占めました。

さらに、UFO研究や「お化けを守る会」などのユニークな活動も行い、多角的な興味を示しました。自伝的小説『レミは生きている』では、幼少期の差別体験を告白的に描き、第6回サンケイ児童出版文化賞を受賞しています。この作品では、「ねえ、おかあさん、ぼく、なぜ、あいのこなの」という少年の問いかけから始まる孤独と再生の物語が綴られています。

家族と私生活、そして晩年

平野威馬雄さんは2度の結婚で9人のお子さんをもうけました。長女が料理愛好家・シャンソン歌手の平野レミさんで、息子には画家の平野琳人さんがいます。レミさんは幼い頃から父の影響でシャンソンを身近に感じ、自由奔放な性格を育んだそうです。レミさんはインタビューで、父が「好きなことをやれ」と進学校を辞めるよう勧めたエピソードを語っており、それが自身の生き方に繋がったと振り返っています。

晩年は千葉県松戸市で暮らし、1986年(昭和61年)11月11日、心筋梗塞のため松戸市立病院で86歳で亡くなりました。遺骨は横浜市中区山手町の外国人墓地に葬られ、毎年5月5日(生誕日)に墓前祭「青宋忌」が行われています。この祭りは今も続き、彼の功績を偲ぶ場となっています。

さいごに

平野威馬雄さんの人生は、日米ハーフとしての差別と闘いながら、文学を通じて表現し、社会貢献に捧げた壮絶なものでした。自身の苦しみを他者の救済に変えた姿勢は、今の時代にも大きな教訓を与えます。娘の平野レミさんが明るく活躍する姿に、彼の遺伝子と精神が受け継がれているのを感じます。平野威馬雄さんの歩んだ道は、決して簡単なものではありませんでしたが、それゆえに輝きを放っています。

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