はじめに
1970年代の後半、関西馬として注目を浴び、「流星の貴公子」と呼ばれた名馬がいます。
その名はテンポイント。
同時代のトウショウボーイ、グリーングラスらとしのぎを削り、1977年の有馬記念でトウショウボーイと繰り広げたマッチレースは、競馬史に残る名勝負として語り継がれています。
そんな伝説の名馬・テンポイントはその後の悲劇的な運命から「悲劇の貴公子」とも呼ばれています。
今回は、その悲劇のきっかけとなった「テンポイント事件」について、調べてみました。
テンポイントの悲劇とは
「流星の貴公子」テンポイントの誕生
のちに悲劇の名馬と呼ばれるテンポイントは、陽に映える栗毛と額の流星、バランスの取れた気品ある馬体で注目を集め、競馬ファンからは「流星の貴公子」と呼ばれました。
1975年8月の新馬戦からデビュー5連勝を飾り、1番人気でクラシック第一冠・皐月賞に挑むことになります。
結果は、「天馬」と呼ばれた2番人気トウショウボーイに5馬身差で敗れ2着となります。それ以降、日本ダービー、菊花賞、有馬記念と、当時テンポイントと共に「TTG」と呼ばれたトウショウボーイ、グリーングラスらの後塵を拝し、どうしても勝つことができませんでした。
1977年・有馬記念の名勝負
1977年、天皇賞・春で宿敵・グリーングラスを退けてようやく勝利しますが、宝塚記念ではまたもトウショウボーイに敗れ2着。その後はひたすら打倒トウショウボーイの一心で、年の暮の有馬記念を迎えます。
このレースを最後にトウショウボーイは引退を予定していました。
つまりテンポイントにとっては、ライバルに打ち勝つ最後のチャンスだったのです。
レースはスタート直後からテンポイントとトウショウボーイが3番以下を大きく引き離す一騎打ちの展開となります。自信満々に逃げを打つトウショウボーイと、逃げさせまいと馬体を合わせていくテンポイント。ほかの6頭など一切眼中にない、完全なマッチレースです。
4コーナーを越えて、最後の直線まで激しい戦いが続きます。テンポイントが前へ、抜かせないトウショウボーイ、貴公子と天馬がビッシリと叩き合う。最後はテンポイントが4分の3馬身だけ先んじてゴールへ。0.1秒差でテンポイントが夢を果たしたのです。
テンポイントがトウショウボーイに勝利した歴史的瞬間でした。
このレースは中央競馬史上最高の名勝負のひとつとされ、テンポイントは1956年のメイヂヒカリ以来2頭目の満票で年度代表馬に選出されたのです。
テンポイントの悲劇
翌年1978年になり、2月にイギリスへの海外遠征を控えたテンポイントは、関西圏のファンから遠征前にテンポイントの雄姿が観たいという強い要望もあり、壮行レースともいうべき1月22日の日経新春杯に出走することになります。
ところが、ハンデ戦である日経新聞杯では、66.5kgという斤量を背負って駆けたテンポイントを待っていたのは、左後肢骨折という悲劇でした。
その後、日本中央競馬会では、テンポイントの安楽死を検討しましたが、テンポイントの助命を嘆願する電話が数千件寄せられたため、「なんとかテンポイントを種牡馬にしたい」として、成功確率の低い大手術を行うことになったのです。
けれども、その手術の予後が芳しくなく、手術した患部が腐敗してしまいます。
テンポイントの全身は瘦せ衰え、やがて眼にも光がなくなり、43日におよぶ治療の末、最後は蹄葉炎で死亡しました。
伝説の名馬の死は、テレビニュースでも大きくとりあげられました。そして、競馬会の昭和史の一事件として語り継がれているのです。
テンポイントのお墓はどこにあるの?
テンポイントのお墓は、北海道にある吉田牧場の丘の上にありました。
残念ながら、120年余りの歴史に幕を下ろし、吉田牧場は2020年に生産終了となってしまい、現在は牧場敷地内は訪問・参拝禁止となっているようです。
代表の吉田晴雄さん(当時76歳)の高齢によるものと、後継者不在、さらにその年の4月に発生した火災で繁殖用の牝馬が全て焼死したことなどが理由のようです。
テンポイントのプロフィール
【氏名】テンポイント 【生年月日】1973年04月19日 【性別/】牡 【毛色】栗毛 【戦績】国内:18戦11勝 【総収得賞金】 328,415,400円 【父】コントライト(USA) 【母】ワカクモ 【母父】カバーラツプ二世(USA) 【生産者】吉田牧場 (早来) 【没年月日】1978年03月05日
さいごに
昭和の名馬テンポイントの悲劇は、競馬ファンの間では誰もが知る出来事として語り継がれています。
こうした栄光と悲劇の積み重ねが、競馬というスポーツの歴史をつくり、競馬ファンの人々を魅了するのでしょうね。
そして、いまも競馬の世界では新しい歴史が作られています。
これまで競馬に興味がなかった方も、お近くの競馬場に足を運んでみてはいかがでしょうか?